(編/米屋陽一)
第17回・一人前・二人前
そいでこれだけの面積を、こういう風に並んでね、土方でねぇ行くとねぇ、朝親方に会うんですよ。例えば、ずーっと道あんでしょ、そんとね、「これの通りに何尺で下を掘ってけ」って。こういう風に掘ってけば水がわいてバーン。だから、みんなで競争したり、いくらでもお金になる人は、腕が強い人は、二人半ぐれぇは、二人ぐれぇは、人がこのくらいな面積が一人前だとすんと、六尺なら六尺下げるの。これを下げんのにずーっと割ってってねぇ。
みんなねぇ、「おれらは、二人前割ってくんせえ」って。これが一人前だと、これにもうひとつと。土方ってのは、みんなねぇ、そういうにやんですよ。一概にはいえねえけど。だから、腕の悪いやつはもう来られねぇの。そういうエンピ(円匙)の使えねぇやつは。
そいで割って、「一人前いくら、二人前いくら」「おれは一人前と半分でいいや」と。そのかわり、ご飯とお金とその分かくんねぇから。そういう仕事もやってきました。厳しいですよねぇ。みんな肉体労働だから、頭も悪いけど、わたしなんか。そういう百姓でやってきたでしょ。みんなそんな、そのくれぇな仕事で。そいで終わってねぇ。
そいでみんなでスタートきんですよ、ざあーっと。自分が一人前なら一人前の人のとこ、みんなでこう。利口な人はねぇ、絶対、上っ皮をそぐんですよね。うそかなぜかってのはね、分かんないですよ、夢中でやって。早くやっちゃうとね、早く口穴っこ開けちゃうとね、最後来っとね、水が来ちゃうんですよ。
ところが、頭のいいやつは、みんなプロはね、もう人には負けて、これで大丈夫かなあと思うとね、最後の方は砂が多いんですよ、そこへ行くとだいたいの辺はねぇ。後から掘ったのはねぇ、一番早く上がって、最初やってんのはねぇ、ぐじゃぐじゃにしちゃうですよ、どうしても水がねぇ、早く掘んとね、馬鹿だからねぇ、てめぇんとこ水やまねぇで来ちゃうだよ。水呼んじゃうと、てめぇがこんだ掘れなくなっちゃうんで。だからねぇ、お金になるってことは、そういう仕事もねぇ、やってきたですよ、みんな。そうやって、やんなくちゃぁ。
〈ききみみ〉
「半農半商」に「行徳土方」(肉体労働の出稼ぎ)、仙太郎さんは農業、引き売り八百屋、土方として働いてきました。過酷な労働にもかかわらず、「五ヶ町(村)の例大祭」に深く関わり、神輿のもみ手(担ぎ手)としても活躍してきました。祭礼=行徳の男衆、それを支える女衆・子どもたち・町衆…、相関関係が見えてくるようです。仙太郎さんが生まれ育った本塩は、「五ヶ町(村)の例大祭」の締めくくり。大神輿が豊受神社(本塩)の狭い鳥居をくぐってしまうと祭礼は終了。鳥居を通過したかと思った瞬間、神輿は後退。この繰り返しが続く。観客の拍手喝采も続く。仙太郎さんがいう「五ヶ町(村)」の「(村)」での締めくくり。この心意気が伝わってくる瞬間であり、「五ヶ町(村)の例大祭」のクライマックスに達する瞬間でもあります。仙太郎さんは8月10日死去。97歳。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
※現在では不適切な表現が含まれていますが、時代背景を考慮しそのまま掲載しました。
<語り手>萩原仙太郎/1927(昭和2)年、千葉県東葛飾郡行徳町(市川市本塩)生まれ。
<編者>米屋陽一/口承文芸学研究者。元日出学園中学校・高等学校教諭、元國學院大學文学部兼任講師。日本民話の会会員、「米屋陽一民話・伝承研究室」主宰。市川市南大野在住。